<救済> のメーディウム ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ
本書は、ヴァルター?ベンヤミン、テーオドア?W?アドルノ、アレクサンダー?クルーゲのテクストを、「救済」という思考形象に着目しつつ、メディア美学的な観点から読解することで、フランクフルト学派の芸术?メディア論に新たなパースペクティヴをもたらすことを企図している。中心をなすのは、これら三人の思想家に共通する、メディア技术によって媒介された芸术作品を、一種の「追想」の媒体として読み替えようとする姿勢である。というのも、彼らにとって芸术作品とは、支配体制によって抑圧され、忘却されたものの存在を感覚的に経験することを可能にするものであり、さまざまなテクノロジーは、芸术作品に内在するそのような潜在的可能性を拡張することに寄与するものにほかならないからである。さらに、狭義における芸术作品のみならず、映画にも (さらには、クルーゲにあってはテレビ番組にも)、受容者の知覚のなかでそれぞれの感情や経験と抑圧されたものを結びつけるというメシアニズム的な潜勢力が備わっているのである。
第I部「救済の美学」では、「救済」とメディアをめぐるベンヤミンの思考の展開過程を再構成することが試みられる。その手がかりとするのが、初期ベンヤミンの著作を特徴づける「遊戯」という概念であり、それはのちの技术メディアやその知覚形式をめぐるベンヤミンの省察へと受け継がれていくことになる。
第II部「メーディウムとしての芸术作品」では、芸术についてのアドルノの思考の弁証法的なダイナミズムに迫る。一般にアドルノは生涯にわたってエリート主義的な芸术観に固執しつづけたと見なされてきた。だが、アドルノの芸术哲学的な著作には、一種のメディア美学の萌芽とも呼べるような個所も含まれているのであり、さらにそこではメディア的な複製技术だけでなく、キッチュと呼ばれる現象も扱われているのである。
第III部「変容する投壜通信」では、アドルノにおける知覚媒体としての芸术作品というモティーフが、その思想的な弟子にあたるアレクサンダー?クルーゲによって受け継がれ、『公共圏と経験』(1972) をはじめとする理論的著作や、さらにはクルーゲが1980年代から現在にいたるまで継続しているオルタナティヴなテレビ番組の制作の原動力になっていることが示される。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 竹峰 義和 / 2017)
本の目次
第I部 救済の美学
1.「無声映画の革命的潜勢力」――初期ベンヤミンにおける <沈黙> と <音楽>
2.解体と再生の遊戯――ベンヤミン「複製技术時代の芸术作品」について
3.[補論1] 外来語の救済――初期アドルノにおけるクラウス的モティーフ
第II部 メーディウムとしての芸术作品
4. 芸术の認識機能――アドルノのシェーンベルク論をめぐって
5. 破壊と救済のはざまで――アドルノ美学におけるキッチュの位置
6. [補論2] 挑発としての擬態――アドルノの文化产业論再考
第III部 変容する投壜通信
7. 投壜通信からメディア公共圏へ――アドルノとクルーゲ
8. 労働のメタモルフォーゼ――ネークト / クルーゲ『歴史と我意』をめぐって
9. マルクス主義の死後の生――クルーゲ『イデオロギー的な古典古代からのニュース』
関连情报
第30回和辻哲郎文化赏(学术部门)授赏作
书评:
海老根剛『表象』11号 (2017), pp.279-283.
柿木伸之『図書新聞』3297号 (2017)
田中 純『UP』」535号 (2017), pp.31-35.