感性文化论 〈终わり〉と〈はじまり〉の戦后昭和史
明治以后の日本の文化状况の変化を语る际に、「戦前」、「戦后」という区分がしばしば用いられる。そのことに特に违和感を感じることもなく、太平洋戦争というとてつもない出来事の前と后とで文化ががらりと変わってしまうのは当然のことだ、と考えてしまうのが普通かもしれない。だがちょっと考えればわかることだが、政治体制は一夜にして変わるとしても、文化は一夜にして変わるなどというものではない。そのことに何の自覚もないまま文化史を「戦前」と「戦后」に区分して论じているとすれば、それは、「鎌仓时代の文化」、「江戸时代の文化」等々、政治体制の変化による时代区分で縦割りにされてしまった教科书での文化の记述の仕方と同じく、文化史が政治史に従属するかのような思い込みゆえのことなのではないだろうか。そういうつもりで见直してみるならば、日本の近代史は全く违った相貌をみせてくることになるのではないだろうか。
本书はそのような问题意识にたって「戦后」日本の文化を捉え直してみようとする试みである。その际に重要になってくるのが、「感性」の変化という切り口である。歴史は、残された「モノ」だけから復元できるものではない。「戦后」は比较的近い时代であり、映像や音声の记録も数多く残されているから、その再构成は容易であるように思われるかもしれないが、そうではない。映像や音声自体は当时のものであっても、见る侧、闻く侧の受け止め方が违っていれば、そこに开けている世界は全く异なったものになってしまうからだ。このような感性のあり方自体、それぞれの时代のメディアの状况との関わりの中で形作られ、刻々と変化してゆくものである。もっと言うなら、感性のあり方がこのような変化をとげる中で世界が様々に捉えられてきた、その変化の轨跡こそが歴史と呼ばれるものの実体であるとすら言えるかもしれない。そのような感性の変化に焦点をあてた、いわば「感性の考古学」の営みを通じて、1960年代末に、戦前と戦后を分かつ断絶よりもはるかに大きな歴史的断絶があったことが明らかになるというのが本书の主张である。
本书の前半では、1964年に行われた东京オリンピックの际のラジオ中継アナウンスと公式记録映画の分析を行っている。东京オリンピックはしばしば、その后の戦后日本の针路を决定づけた新时代の现象であるかのように语られるが、これらの分析から明らかになってくるのは、そこでの人々の感じ方や行动様式がむしろ戦前から継承されてきた「テレビ以前」の「耳の文化」のあり方に近いものであったということである。これに対し、后半の二つの章では、学生运动などの盛り上がった1969年の新宿のフォークゲリラの活动や日本桥の上を塞ぐように作られた高速道路の景観に対する人々の反応の変化に関わる分析を通じて、この时期に人々のものの见方や感じ方、価値観自体が急速に変容を遂げていったさまを描き出している。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 教授 渡辺 裕 / 2018)
本の目次
〈第I部 1964年東京オリンピックのメディア考古学〉
第1章 「実況中継」の精神史―「耳で聴くオリンピック」の背景文化
第2章 「テレビ的感性」前夜の記録映画―公式記録映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか
〈第II部 環境をめぐる心性?感性と価値観の変貌〉
第1章 新宿西口広場「フォークゲリラ」の音の空間―新しい感性の媒介者としての『朝日ソノラマ』
第2章 日本橋と高速道路―都市景観をめぐる言説史にみる感性の変容の軌跡
関连情报
読売新聞 (2017年6月18日 伊藤亜紗)
朝日新聞 (2017年6月25日 原 武史)
北日本新聞ほか地方紙 (2017年6月4日、北浦寛之)
図書新聞 (2017年6月24日号、皆川 勤)
週刊新潮 (2017年6月1日号、碓井広義)
週刊ポスト (2017年6月9日号、井上章一)
着者インタビュー:
毎日新闻(2017年6月18日、大井浩一)