映像人类学 (シネ?アンスロポロジー) 人类学の新たな実践へ
映画が発明された1890年代は、现代人类学が成立しはじめた时代でもあった。人类学が映像の问题と水面下でいつも関わってきたのは偶然ではない。マリノフスキ、ミード、ベイトソン、レヴィ=ストロースといった伟大な人类学者たちは、フィールドでの写真や映画の撮影に热中した人々でもある。人类学者はフィールドにいつも、ノートとペンだけでなく、カメラを忘れずに持って行ったのである。本书の第一の目的は、この映像という、人类学の歴史のなかで常に影に隠れがちであったものを前面に引き出して、そこから人类学という学问全体を捉えなおすことである。
ところで、このように考えてみるとき、人類学の歴史の中で長く無視されてきた一人の偉大な存在が目に入ってくる。人類学者であり、また映画の世界に決定的な影響を与えた映画作家でもある、ジャン?ルーシュである。本書の第二の目的は、人類学でも映画でもその全貌が知られていない、このジャン?ルーシュの仕事が含んでいた豊かな可能性を示すことである。本書の特徴の一つは、人類学者と映画作家という二つの顔を持つルーシュの仕事を両面から深く掘り下げて考察していることだが、そうした議論は日本はもちろん海外にも他に見当たらない。なお、本書の執筆メンバーには、ルーシュのもとで民族誌映画制作を学んだ大森康宏、および、大森の指導のもとで民族誌映画制作を実践してきた若手研究者 -- 共編者の村尾静二をはじめ -- など、いわばルーシュ直系の人類学者が多く加わっている。
ルーシュが案出した概念には、现在および未来の人类学を照らし出すものがいくつもあるが、本书のタイトルでもある「シネ?アンスロポロジー」と并び重要なのは、「共有人类学」である。ルーシュは、人类学の営みが人类学者の一方的な行為ではなく、现地の人々と一绪に行うことに深く根ざしているという事実をいち早く见抜いてこの概念を提起したが、今日では、これは広く人类学全体で议论される问题の一つとなっている。共有人类学に焦点を当てた本书の后半では、世界各地で现地の人々との密接な関わりの中で映像を制作した経験、またその映像を现地で上映した経験が具体的に绍介され、踏み込んだ考察の対象となっている。
本書に付録としてつけられたDVDには、共著者の大森がルーシュの指導下で制作した民族誌映画を始め、本書の執筆者による民族誌映画も収められて、「実践」のあり方が具体的にも理解できるようになっている。人類学と映画の交叉がもたらす可能性をよりよく知るための資料集もつけて、口絵写真も可能な限り多く収集した。デジタル技术の発達によって誰もが日常的に映像を扱うようになった今日、本書に収められた議論や映像は、人類学に限られることなく、より広い領域の関心にも関わりうるものである。実際、本書は人類学のみならず、映画や芸术の研究?制作に関わる人々からも大きな関心を持って読んでいただいている。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 箭内 匡 / 2016)
本の目次
第滨部 原点
映画を撮ること、観ること、共有すること - ロバート?フラハティの「人類学的」映像制作 (村尾静二)
紀行文と旅映画 - 渋沢フィルム《飛島》を事例として (木村裕樹)
文化を写しとることは可能か - ベイトソンとミードの映像人类学から (宮坂敬造)
第滨滨部 シネ?アンスロポロジーの创造
共有する映像制作 - ジャン?ルーシュから学んだこと (大森康宏)
ジャン?ルーシュの思想 -「他者になる」ことの映画 - 人類学 (箭内匡)
映画作家ルーシュ - ヌーヴェルヴァーグ映画を鏡として考える (小河原あや?箭内匡)
第滨滨滨部 映像の共有人类学
「子ども」と映像 - カメラへの関心と変化の共有 (南出和余)
技术映像の可能性 - モノづくりの映像がかたるもの (中村真里絵)
映画をめぐる生の交差 - 時間と空間の共有がもたらすもの (清水郁郎)
第滨痴部 民族誌映像の発信?保存?再利用
共有のためのメディア - 戦後マスメディア史からみた映像人类学の可能性 (飯田 卓)
映像アーカイブズから映像の共有を考える - 国立民族学博物館での経験から (久保正敏)
共有から引用へ - 生成と創造のマトリクスの構築に向けて (大村敬一)
第痴部 作品解説
1 民族誌映像の創出 リュミエール兄弟から一九六〇年代まで
2 新しい民族誌映像のために 一九七〇年代~現在
3 本書関連民族誌映画DVD収録作品 解説
終章 新たな課題 - 方法論から認識論へ (村尾静二)
あとがき 编者
映像视聴ガイド