讲谈社选书メチエ ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン
本书は1968年以降、记号论から身体论、ポストモダニズムへと展开していった、ロシアの文化理论?哲学の流れを追う。类书は日本国内だけでなく、英语圏やロシア本国でもほとんど见当たらないが、それはむろん、テーマのマイナーさを示してもいる。このマイナーなテーマを、ソ连崩壊を挟んだロシア社会の「ポストモダン」化、さらに、同时期の世界?日本における同様の过程と结びつけ、多くの読者にとって身近な文脉へと开いたことが、本书の特徴といえるだろう。
本書でいう「ポストモダン」化とは、1968年 - 権力と民衆の対立が最後に盛り上がった年 - と1991年 - 資本主義と社会主義の対立が終わった年 - を契機とする、世界の二極的対立という「大きな物語」の終焉を指している。本書では、ロシアにおけるその物語を、「私はXにとって他者である」というかたちに類型化し、「第二世界」の物語と呼んだ。ロシアの知識人は伝統的に、「私は権力にとって他者である」と同時に、「私は西欧近代にとって他者である」というアイデンティティを支えにしてきたが、1968年以降、それらの物語の危機に直面した。ただし「第二世界」の物語は、たんに滅び去ったのではない。例えば日本の現代思想と比較したとき、命脈を絶たれたはずの「大きな物語」が、ロシアでは亡霊のごとく執拗に回帰してくる。社会?政治レベルでいえば、2014年のウクライナ危機に、「ロシアは西側の他者である」という物語の大きな揺り戻しをみてとれるだろう。
一方において、「第二世界」の物語はたしかに死んでいる。自分は権力とは縁もゆかりもない、権力の恩恵などなにひとつ被っていない、といまどき強弁しても、度外れにナイーヴか傲慢とみなされるだけだろう。私とX = 権力は他者たりえないということを、ロシアの知識人は、ソ連崩壊にともないトラウマ的に経験した。積年の敵であったはずのソ連権力が潰えたあと、社会を襲った経済混乱のなかで、知識人たちは目指すべき理念を失い無力化してしまう。「Xの他者」としてのアイデンティティはXあってこそのものであり、その点で知識人はつねに権力に依存していたのだ。
だが、このような苦い経験を経ても、ロシアの知识人は「第二世界」の物语を手放さなかった。この物语を死后になお甦らせるべく、「私」と齿のあいだや、あるいは齿の内部に、新たな対立?対抗の源が探られてゆく。そのような模索は、日本のこれからを考えるうえでも、なにか共鸣するところがあるかもしれない。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 准教授 乗松 亨平 / 2016)
本の目次
第一章 「第二世界」の物语
第二章 ソ连记号论のパフォーマティヴィティ
第叁章 ポストモダニズムの「ロシア」
第四章 记号から身体へ
第五章 「第二世界」のない対抗
おわりに 対立を消尽するために