东大映画研究狈辞飞/マチュー?カペル 日本映画に独特の姿と形をもたらした高度経済成长期という新しいパラダイム
カンヌやベルリンでやっているものとは违う、大学ならではの映画祭です。用意したのは、映画监督と研究者の対谈、映画研究者4人による研究绍介、映画人として活跃する卒业生绍介、研究者12人が荐める映画作品集&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;。映画と大学の掛け算の成果をご覧ください。3、2、1、アクション!
日本映画史 |
日本映画に独特の姿と形をもたらした高度経済成长期という新しいパラダイム
准教授
Mathieu CAPEL
カペル先生の着书
『日本脱出 1960年代の日本映画』
(Les Prairies ordinaires)2015年
「映画は何を考えているのか?」。映画研究者のジャック?オーモンは1996年に问いかけました。この问いを引き継ぎながら别の言い方にしてみましょう。大众によっても映画批评家によっても、映画史の120年はおよそ十年ごとに区分けして语られてきました。たとえば、60年代の映画が考えていることは、50年代の映画が考えていることと违うのでしょうか。违うとすれば、それは、なぜ、いつ変わったのでしょうか。
映画の「考え方」は、ストーリーや内容にとどまらず、画面に现れるフォルム(形式)やフィギュール(姿)にあります。その観点から、より复雑な语り方が必要になるでしょう。通常の映画史では、1960年の安保闘争と同时期に大岛渚、吉田喜重、篠田正浩らが代表する「松竹ヌーベル?バーグ」が登场したことで急に映画が変わり、1970年の安保闘争と同时期に映画产业の停滞が强まったことで60年代映画が终わった、と语られます。フォルムとフィギュールは别の生理的リズムを持つように见えます。その限りにおいて、例の50年代映画や60年代映画というカテゴリーは无効化されます。当时、确かに映画表现は変わりましたが、それは、新しいパラダイムとしての、あるいは新しい言説空间としての高度経済成长期ができたから。高度経済成长期は日本映画に独特のフォルムとフィギュールをもたらしました。
高度経済成长期の新しさは、松本俊夫监督のいう「日常のヴェール」に隠蔽された秩序として発见され、新世代の映画监督たちは、人々は无意识な构造に支配されると断言しました。そして、映画の使命はそうした「ヴェール」を破り不可视性を可视化することとなりました(それは少なくとも19世纪以降の芸术の古典的な役割に似ている)。さて、可视化された景色はどう见えたでしょうか。
世界はどこまでも断片化しつつあります。その断片は、叁次元的なものではなく、札のように表面的なものです。その现象は勿论、人间にも见えます。职业、都市计画、交通机関、行政などによって人の身体は解体し、流通する品物となりました。マスメディアと消费社会に深く関わるその新しい状况は、「世界の粒子状态化」と名づけられました。その特徴は、限りない断片の増殖、一様化、表面化、フラクタル化。これがどんなに映像の大量生产に似ているかは谁の眼にも明らかでしょう。
结果的に、思考が用いてきた概念、または二项対立(论理学の法则である无矛盾律まで!)は无効になります。阶级のヒエラルキー、新封建制の圧迫、家庭构造の変容のような戦后映画のテーマは依然として存在しますが、新しい粒子状态が登场したため、本来持っていた意味は不可逆的に変わります。その転换こそは「60年代映画」、というより「高度経済成长期映画」の根本的な意味を定义します。それ以后の「世界の粒子状态化」が、表面に魅惑された80年代にはどうなったのか、というのが、现在の私の研究にほかなりません。
増村保造『巨人と玩具』 DVD ¥3,080(税込) 発売元?販売元:KADOKAWA ©KADOKAWA 1958