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东京大学教员の着作を着者自らが语る広场

白い表紙

书籍名

汉文ノート 文学のありかを探る

着者名

齋藤 希史

判型など

320ページ、四六判

言语

日本语

発行年月日

2021年11月2日

ISBN コード

978-4-13-083083-6

出版社

东京大学出版会

出版社鲍搁尝

学内図书馆贷出状况(翱笔础颁)

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东京大学出版会の月刊雑誌『UP』には、本学の教員などによる学術的エッセイとでも称すべき連載が並んでいる。それぞれの専門をふまえながら専門外の読者も視野に入れ、論文とは異なる自由さで書かれた文章である。この本は、そうした連載のうちの一つ (少なくとも形式的には) の「汉文ノート」をまとめたもので、書籍化にあたって副題を加え、文章を内容によって四季に配列しなおした。書名の「漢文」は、中国古典文学とそれにかかわって生まれた東アジアの文学を指し、副題で用いた「文学」はさらに広く、書くことによる表現全般を含む。私たちにとってそうした「文学」はどのような意味をもつのか。副題の案を検討しながら気づいたのは、季節や日常に沿って書かれたこれらの文章が、時には専門の論文よりも、その問いに近づこうとしていることだった。
 
「春」の章の末尾に「悼亡」と题する文章がある。「悼亡」は、文字通りには人の死を悼むことだが、中国文学では妻の死を悼む作を言い、晋の潘岳に始まる。この文章ではおもに宋の梅尧臣のそれを取りあげ、潘岳にも言及した。そしてじつは私が初めて书いた论文、つまり卒业论文は、その潘岳の「悼亡诗」の修辞について分析したものだった。潘岳以前に、亡くなった友人の妻になりかわって夫の死を嘆く诗や赋があり、「悼亡诗」の表现がそれを引き継いでいること、そうした修辞の踏袭は、繰り返し妻の死を悼んで叁首に及んだ「悼亡诗」の构造とも通じていることなどを论じて、诗における悲哀のリアリティがどこから生まれるのかを検讨した。あくまでテクスト论的な分析である。そもそも、潘岳の悲哀いかばかりか、では论文にならない。
 
「汉文ノート」の連載に「悼亡」の回を書いたのは、話題に窮してとうとう卒論まで引っ張りだしてきたというわけではない。いや、ある意味ではそうだったのかもしれない。その時の私には他に書くことが思いつかなかったのである。掲載は二〇一一年六月。東日本大震災で多くの人が家族や友人を亡くしたことがまだ記憶にもならないころだった。手もちのことばがどれも陳腐に感じられたとき、かつて論じた詩が浮んできた。
 
いま思えば、授業や論文とは違ったやりかたで十年以上にわたって続けた「汉文ノート」の連載は、私にとってことばや文章の価値はどこにあるか、それを繰り返し考えさせるトレーニングだった。ついでに言えば、自分でいささかの工夫を加えながら作成した巻末索引は、そのトレーニングにつきあってくれた人物や書物のリストとなっている。問いが生まれる場所の地図でもある。この本を手にとる機会があったら、ぜひ索引にもお目通しいただきたく思う。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 教授 齋藤 希史 / 2024)

本の目次

はじめに
 
【春】
&苍产蝉辫;霞を食らう/ともに诗を言う/双剣/年年歳歳/走马看花/悼亡
【夏】
&苍产蝉辫;瓜の涙/斗酒なお辞せず/口福/帰省/スクナシジン/友をえらばば
【秋】
&苍产蝉辫;満目黄云/蝉の声/菊花の精/隠者の琴/読书の秋/起承転结
【冬】
&苍产蝉辫;书斎の梦/郎君独寂寞/二人组/诗のかたち/杜甫诗注/汉诗人

関连情报

书评:
佐藤浩一 評 (図書新聞 2022年5月28日号)

 
加藤徹 評 (日本経済新聞 2021年12月18日)

 
书籍绍介:
(著者に会いたい) 齋藤希史さん「汉文ノート」インタビュー 豊かさは日々のことばに (朝日新聞 2021年12月18日)

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