齐物的哲学 章太炎与中国现代思想的东亚经验
近代中国を代表する哲学者である章炳麟 (1869−1936) は、『荘子』斉物論篇に対して、清代考証学の正統的方法を継承する文献学手法と近代仏教学の思想、さらに日本で革命活動に従事していた20世紀初年に吸収した明治の諸思潮を応用しながらまったく新しい解釈を加え、自らのユニークな哲学体系の骨格を定めた。本書は、この章炳麟の哲学を「斉物的哲学」と呼び、その特徴を明らかにした。その際、章炳麟のテクストだけに注目するのではなく、彼の哲学が生成した時代と空間に留意しながら、中国における清朝以来、辛亥革命に至る近代学術思想史のコンテクストと、日本と中国を横断する地域的連環に着目した。そうすることによって、しばしば漢民族中心のエスニック?ナショナリズムを支えてきたと思しき章炳麟の学問的バックグラウンドは、東アジア的地平へと拡張されたからこそ、今日なおその意義に注目が集まる「斉物的哲学」が誕生したことを示した。
「斉物的哲学」最大の特徴は、言语の音声と文字の両側面に対する精緻な分析の上で、万物が平等にその生を謳歌する理想の世界像を構成している点にある。同時に、こうした哲学は、帝国主義に対抗するために中国で形成されるべき新しい近代国家の構想を準備するとともに、国家を内側から批判する契機をも孕んでいる。第1章における丸山真男の「歴史意識の「古層」」及び「忠誠と反逆」との比較研究や、第4章における高山樗牛の日本主義との比較研究において、章炳麟のナショナリズムと国家意識、さらには国家批判が明らかにされる。第2章と第3章では、言语学、文学、哲学が一体となることによって構成される独特の言语哲学が、いかにして中国における近代革命に理論的基礎を与えていったのかが検討されている。第5章においては、章炳麟が好んで論じた『荘子』がいかにして、中国における近代啓蒙哲学の資源となり得たのかについて分析を試みた。この試みは同時に、中国における「啓蒙」の意義を伝統思想の中から再定義する試みでもあり、「啓蒙」の概念を相対化するとともに、再びそれを東アジアにおける批評概念として再構築する試みともなる。第6章は、東日本大震災を東アジアの近代経験の中に位置づけて論じたものである。
総じて、本書は章炳麟を中心とする中国の近代哲学の輪郭を明らかにすることを通じて、日本と中国を軸とする東アジアの近代経験を批判的に吟味したものだ。また、本書はもともと東京大学共生のための国際哲学研究センター (春雨直播app Center for Philosophy, UTCP) からブックレットとして2013年に出版された『敢问“天籁”』(中国语) をもとに再編集し直したものである。中国语母語話者ではない著者によるSinophone Philosophyの試みとしても意義を有している。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 石井 剛 / 2021)
本の目次
一、&濒诲辩耻辞;道之生生不息&谤诲辩耻辞;的两种世界观:章太炎和丸山真男的思想及其困境。
二、&濒诲辩耻辞;言&谤诲辩耻辞;和&濒诲辩耻辞;文&谤诲辩耻辞;的真理表述:章太炎的语言实践,或者哲学话语方式
叁、敢问&濒诲辩耻辞;天籁&谤诲辩耻辞;:对于章太炎和刘师培两人哲学的比较
四、超越国家的国家想像:章太炎和高山樗牛
五、《庄子&产耻濒濒;齐物论》的清学阅读:反思启蒙的别样径路
六、实践的思想,思想的实践:有关个体生存的提问及&濒诲辩耻辞;我们&谤诲辩耻辞;的时代