インド学仏教学丛书25 顺正理论における法の认识 有部存在论の宗教的基盘に関する―研究
仏教には一切皆苦、つまりすべては苦だ、という教えがある。确かに、私达の人生には病や死といった肉体に直结した苦しみもあれば、対人関係上の悩み、金品の欠乏、现在の生き方や社会への不満、未来に対する不安もある、といったように苦悩に事欠かない。そうしてみると、一切皆苦は人生に関する真実の一面を突いているようにも思える。
しかし、いかなる疑问もなしに、一切皆苦が受け入れられることもないだろう。例えば私达の人生には、苦悩と同时に様々な快楽、歓喜、幸福も存在する。にもかかわらず一切皆苦だというなら、それらの楽も実は苦なのか。また苦楽とは无関係に见える椅子や机といった物体も、実は苦なのか。もしそれらも苦だというのなら、それは何故か。また、どのようにして楽や物体も苦だと认识できるのか。あるいは、私が苦悩するとき、たしかに自己にとって苦が存在しているかもしれない。では他人が苦しんでいるとしてもその苦しみを私は感受しないのだから、彼の苦は私にとって存在していないのだろうか。要するに、「すべてのものは苦である」とは「すべてのものは苦を特徴とするあり方で存在する」、あるいは「すべてのものは苦として存在しているように认识されている」ということなのだから、そこには「苦として存在する」ということの意味と、苦としての存在を知る方法についての问いが内在しているのである。
さて一切皆苦とは、釈迦牟尼仏という一人の修行者が洞察し、弟子に教えたことだという。したがって、以上の问いをより一般化すると、「なぜ、仏という一个人が教えた通りの仕方で世界は存在するのか」、「どのようにして仏の教えが真実だと认识できるのか」と言い换えられるだろう。仏教では、その歴史を通じていくつもの教理思想が繰り返し构筑されてきた。それらの形态は极度に多様ではあるものの、ここで见たような、仏が説いた真実のあり方とそれを认识する方法という、存在と认识に関する问いに答えようとしてきた点では一贯していると言ってよいかもしれない。
本書は、衆賢 (Sa?ghabhadra、後5世紀) というカシミールの学僧が著した大部の教理書『阿毘達磨順正理論』を手がかりに、彼が仏教における存在と認識についての問いにどう答えたのかを解明しようとしたものである。従来の研究によれば、衆賢は、インド仏教思想が認識論?論理学へと傾斜していった時代におけるミッシングリンクの一つではないかと予想されてきた。しかし『順正理論』の難解さと資料上の制約のため、彼の思想の全体構造が明晰に語られたことはなかった。本書が試みたのは、時間と存在、真理論、知覚論、実在論、仏の一切智者性論証に関する議論から、衆賢の、仏教観に支えられた認識論を析出することであった。本書の試みは、知識の系譜としての仏教史における、不可欠のピースを求めることにほかならない。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 助教 一色 大悟 / 2020)
本の目次
第1章 存在を认识する过程
1.1 はじめに
1.2 存在の二つの意味
1.2.1 叁世実有説における认识论的関心
1.2.2 存在の定义に対する二解釈
1.2.3 存在の定义の文脉
1.2.4 无所縁心论争
1.2.5 存在の定义の背景
1.3 〈覚知〉と存在判断
1.3.1 『顺正理论』の二諦説の思想史的文脉
1.3.2 『顺正理论』の二諦説の分析
1.3.3 〈覚知〉による存在判断:性类と有
1.4 〈覚知〉の意味
1.4.1 『顺正理论』の〈覚知〉の意味をめぐる问题
1.4.2 叁现量説における现量覚
1.4.3 叁世実有説に见られる〈覚知〉の用例との対比
1.5 本章の结论
第2章 法が存在する根拠
2.1 はじめに
2.2 认识に先行する诸法
2.2.1 有部论书における実有法の自性と认识可能性
2.2.2 涅槃の存在根拠
2.2.3 他の认识困难な诸法の例
2.2.4 仏説による法の存在の确定
2.3 仏説の権威の论証
2.3.1 众贤论书における権威论証の思想史的背景
2.3.2 『顕宗论』「序品」中の一切智者论証
2.3.3 『顺正理论』「弁业品」中の至教量论証
2.3.4 二论証の根拠にある问题
2.4 本章の结论
结论
略号と使用テクスト
参考文献