近世中后期の藩と幕府
江戸幕府は1603年から1867年までの260年间以上にわたって存続した政府であり、その支配体制は幕末期の短期间を别にすれば変化が少なく、极めた安定したものであった。そのような政権运営が可能であった理由を具体的に解明するのが本书の大きな目的である。
「第I部 藩?大名の政治ネットワーク」では、藩および大名個人が江戸幕府の役人や他の大名との間で構築していた関係について分析を加えた。藩が取り結んでいた関係として、御用頼に着目した。御用頼とは、簡単に説明すれば、藩が非公式に関係を取り結んだ幕府役人のことである。御用頼となった幕府役人は、老中をはじめとする幕府の首脳陣から下級役人にいたるまで非常に幅広い。御用頼へは、金銭?物品などが藩から贈られており、御用頼はそれに応えて、藩の利益のために活動していた。
文政期前半 (1820年代) の古河藩の場合、御用頼との関係以上に非公式の性格が強い贈賄関係を幕府役人などと取り結んでいた。賄賂は幕府首脳陣および将軍徳川家斉本人へ贈られており、その見返りとして古河藩は石高の加増や藩主の幕府役人への就任などを得た。贈賄行為の分析を通じて、幕府内における実際の権力者が誰なのかを明らかにすることができ、さらに幕府と藩との関係が実は贈賄行為の存在を前提として構築されていたことも解明された。
ほかに、会津藩主松平容敬の自笔日记を利用して、彼の交际関係を検讨した。その结果、近世后半の欧米势力の东アジア进出にともなう対外的危机の高まりによって、大名本人の幕府政治への参加意识が高まっていったことが明らかとなった。
?第II部 幕府の支配機構」では、幕府側の支配システムを分析した。具体的には、[1] 所司代 (京都に設置された幕府役人) が交代する際の老中の上京、[2] 天保期 (19世紀前半) に近江国水口藩で発生した家中騒動、[3] 幕府の実務官僚である目付などを取り上げた。
[1] では、老中が上京の機会を利用して、朝廷との交渉や上方地域の政治経済情報の収集を行っており、それを政治判断に利用していたことを指摘した。[2] では、従来は18世紀以降にはほとんど存在しないと理解されてきた家中騒動への幕府の介入が、実際には広範に行われており、それによって家中騒動の拡大や幕藩関係の混乱を未然に防いでいたことが明らかとなった。[3] では、旗本?御家人の管理を職掌としていた目付が、幕府の外交政策に強く関係していたことを確認した。
以上の分析から、江戸幕府と藩との间には公的?非公的それぞれに、さまざまな関係が取り结ばれており、それが柔软に机能することによって、安定した幕藩関係が维持されていたと明らかとなった。
(紹介文執筆者: 史料编纂所 助教 荒木 裕行 / 2018)
本の目次
第I部 藩?大名の政治ネットワーク
第一章 近世中期の幕藩関係―金沢藩の御用頼
第二章 近世後期の鳥取藩御内用頼
第三章 天保改革期の御用頼取締
第四章 文政期古河藩の幕府向内願交渉―御内用役の活動を事例として
第五章 会津藩主松平容敬の交際と政治化
第II部 幕府の支配機構
第六章 所司代赴任時の老中上京について
第七章 株仲間再興令決定過程の検討
第八章 天保期水口藩の家中騒動
補 章 老中松平乗全の大名?旗本情報探索
第九章 目付の職掌について
終 章 近世中後期の幕藩関係と幕府の支配機構