フクシマ以后の思想を求めて 日韩の原発?基地?歴史を歩く
筆者は福島県で生まれ育ったこともあり、2011年3月11日に起きた東京電力福島第1原子力発電所の事故には人一倍大きな衝撃を受けた。チェルノブイリ原発事故を同時代的に知っていたにもかかわらず、日本で、それも自身の故郷で大事故が起こるとは正直想像もしていなかった。それを省みて、「原発」とは何かについて、科学者?技术者の専門的観点とは別に、思想的に深める試みをしなければと思った。本書は、そんな私が、在日朝鮮人の作家?徐京植(ソ?キョンシク)氏、韓国人の歴史家?韓洪九(ハン?ホング)氏とともに、福島の被災地から始めて日本と韓国のいくつかの場所を旅しながら、原発問題だけでなく北東アジアの現代史上の諸問題について、5回にわたって議論を続けた記録である。
福岛原発事故は、単に「福岛」の事故であるわけではない。「东日本」や「日本」の事故であるだけでもない。世界史的事件であるのみならず、その被害、影响、歴史的背景等を厳密に认识するためには、少なくとも东アジア地域の広がりの中で考察する必要があることを、私は本书に収めた対话から教えられた。
福島の被災地に立った後は、韓国?陝川 (ハプチョン) を訪ねた。「韓国のヒロシマ」と呼ばれ、広島?長崎の朝鮮人被爆者で韓国に戻った人びとが多く暮らしてきた町である。ソウル、東京を経て韓国?済州 (チェジュ) 島へ渡った。1948年に始まる四?三事件 (戒厳令下で韓国の軍?警察等が島民約5万人を虐殺したとされる) の現場であり、韓国海軍の軍港建設に揺れる江汀 (カンジョン) 村も訪れた。そして、沖縄。原発のない沖縄だが、戦後、日本復帰前の米国施政権下では、最大時1300発もの核爆弾が貯蔵されていたという。
広岛?长崎から朝鲜戦争、ベトナム戦争を経て、今日「朝鲜半岛の非核化」が大问题となるまで、核兵器问题と无関係の「核の平和利用」などないことが、さまざまな考察を通して理解されてくる。
核兵器の甚大な被害を受けた日本がどうして「原発大国」になったのか。広岛?长崎で约7万人もの被爆者を出した韩国で、米国の原爆投下を支持する人が约6割にも上るのはなぜなのか。福岛の事故は日本にとって「第二の败戦」と言われながら、日本政府がすみやかに原発推进政策に復帰しようとするのはなぜか。日本の民主主义と韩国の民主主义はどう违うのか。その违いは両国民の「核」に対する态度にどのように影响するだろうか、等々。
「嫌韩」やヘイトスピーチ等、日韩间のネガティヴな话题には事欠かない昨今だが、福岛原発事故をめぐって日韩の人文系研究者が深く交流、议论した记録として、参考にしていただければ幸いである。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科?教养学部 教授 高橋 哲哉 / 2018)
本の目次
第1章 福島―2011年11月6日 福島市にて
第2章 陝川とソウル―2012年3月25日 陝川?ソウルにて
第3章 東京―2012年5月20日 東京大学 (駒場) にて
第4章 済州島とソウル―2012年9月15日?16日 済州島?ソウルにて
第5章 沖縄―2012年12月23日 那覇市にて
あとがき