人生と闘争 清水几太郎の社会学
僕は、あの人と金沢の内滩へ行ったり、いろいろしたんですけれども、清水さんのことはよく知らんのですが、惊いたのは、『朝日新闻』に転向の言を书いて、自分はだまされていたと、平和运动をする人たちはもっと纯真だと思っていたら、ひどい人たちがたくさんいるというような、泣き言を书いているんですね。自然科学者が、そんなことを书くなら、まだいいと思うんですよ。ところが少なくとも社会学でしょう。社会学者が、そんなことにだまされたといまさら惊くというのは、いったいなんですかね。
[&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;]清水さん自身がどうなろうと、それはいいんだけれども、社会学者であるのに、ああいう泣き言を书くということが许されるなら、いったい社会学というのはなにをやる学问なのか、とても不思议ですね。(原子物理学者?平和运动家の武谷叁男による発言。小田切秀雄との対谈にて。『知识人の再建』、1971、辫辫.87-89)
ここで「あの人」「清水さん」と呼ばれている人物が、本书の扱う社会学者?清水几太郎です。长年研究に取り组んでいると、自分は何をやっているのだろうかという「纯真」な弱音も出てくるもの。しかし、社会学という学问は、私自身がずっと研究に取り组んできた学问であります。その社会学が、戦后の社会运动に真剣に取り组んできた人物から、「なにをやる学问なのか、とても不思议ですね」という批判を公然と受けているのを目にしたときは、さすがにショックがありました。
そこで私は、この疑問を直接清水にぶつけてみることにしました。なぜなら清水こそ「社会学というのはなにをやる学問なのか」という疑問を考え抜いた人物だからです。彼の『社会学入門』(1959) の冒頭にはこうあります。
この小さな书物は、本当の素人のために書いたものである。[&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;]同じ问题を取りあげるにしても、ただ论理にしたがってでなく、むしろ、私自身が出会った経験――といっても、贫しいものであるが――と结びつけて、これを読者に示すという方法を选んだ。それには、もちろん、読みやすくしようという意図もはたらいているが、それよりも、社会学は人生から生まれ、人生へ帰っていくという私の古くからの信念が物を言っているのだと思う。〔ルビ原文ママ〕(辫辫.3-4)
「人生」!「人生论的」という揶揄は、少なからぬ社会学者が恐れるところです。しかし清水は、正面切って社会学は「人生」の学问だと言っているのです。私は、社会学成立史、メディア研究、家族论、自伝といった多彩なジャンルの清水の着述に隠された主题をたどることで、いかなる意味で社会学が「人生」の学问なのかを明らかにすることに决めました。
清水の答えは、そもそも人が生きるということが社会の定める掟――「框」――なしに考えられないことを认めつつ、それに抗い、それと闘うことこそ「人生」なのだというものです。详しくは拙着に譲りますが、この社会で何かを学ぶことは决して自由ではなく、社会がわれわれを支配するために强いていることでもあります。ですが人间の侧は、たえず既存の社会の掟の一部をなす习惯や知识を壊さなければ生きてゆけません。よって人生は、ふだんの生活のなかの公にならないような微细な葛藤から、自己の属する政治社会を覆す革命までをも含む、自己破壊のくりかえしのような様相を呈することになります。
人间と社会の闘いが、社会学の根源をなしている。そこで繰り広げられる苛烈なドラマは、决して今を生きるわれわれにも他人事ではない。そのことが拙着を通じて読者のみなさんに伝わることを愿っています。
(紹介文執筆者: 品治 佑吉 / 2024年10月16日)
本の目次
第I章 問題設定――清水幾太郎と社会学
第II章 ある社会学者の出発
第III章 生きた闘争の把握
第IV章 家族――生きるという闘いの場
第痴章「人生」を语り始める清水几太郎
終章 意義と展望
あとがき
註
写真出典
文献
人名索引
関连情报
第5回东京大学而立赏受赏 (东京大学 2024年)&苍产蝉辫;&苍产蝉辫;
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自着绍介:
社会学者への複雑な感情をときほぐす 品治佑吉著『人生と闘争──清水几太郎の社会学』 (じんぶん堂|好書好日 2024年8月22日)
书评:
苅部直 評 (読売新聞オンライン 2024年10月4日)
西田亮介 評 (『日本経済新聞』 2024年9月21日)