「支那哲学」の诞生 东京大学と汉学の近代史
大学入試に漢文を課す大学は、今やすっかり少なくなりましたが、それでも毎年共通テストの時期になると、「古文?漢文不要論」がネット (の一部) で盛り上がります。本書は、正面からその話題を扱ったのではありませんが、近代日本の高等教育とりわけその中心であった東京 (帝国) 大学において、学問としての「漢学」がどのように取り扱われ、議論され、生き延びてきたのかを論じました。
江戸時代まで普通、「学問」と言えば漢学、とりわけ儒教を指しました。国学や蘭学 (洋学) もあっただろうと思われるかもしれませんが、たとえば各藩にあった藩校、江戸の中枢にあった徳川政権直轄の「昌平坂学問所」で教えられていた「学問」とは基本的に漢学、とりわけ儒教でした。寺子屋で一通りの手習を終えた子供たちが更に「学問」を学びたいと思ったら、次は四書五経の素読を教わるのが普通でしたし、国学者や蘭学者も、まずは幼少期に「学問」のデフォルトスタンダードとしての漢学を通過してから、「そうではない」学問としての国学や蘭学などへ転じていったのです。
明治维新を経て、この大前提が大幅に崩れました。「学问」と言えば西洋の学问を指す时代が到来したのです。明治初期においては汉学塾もなお命脉を保ちましたが、小学校から始まり大学に至る近代学制が整备されるに従って、汉学を学ぶ环境は大幅に缩小していきました。
このことは、東京大学において顕著かつ象徴的に現れています。明治10 (1877) 年に設立された東京大学は、東京開成学校と東京医学校の書類上の合併によって生まれた大学です (明治19年に帝国大学、明治30年に東京帝国大学と名前を変えます)。東京開成学校は主として英米人が英語で英米法や自然科学を教える学校であり、東京医学校はドイツ人がドイツ語で医学を教える学校でした。それらが合併して生まれた東京大学は、草創期においては特に「西洋人が西洋語で西洋の学問を教える学校」であって、この学校が、やがて近代学制の頂点として位置付けられることになります。
困ったのは汉学者たちでした。创设まもない东京大学においても汉学は细々と教えられてはいましたが、従来の惯习を改められない、あるいは手探り状态の汉学者达は、次第に「学问」のあるべき姿がすっかり変わってしまった现実に直面せざるを得なくなります。时代に相応しい新たな汉学の姿を探ろうとする者たち、汉学の伝统を守ろうとする者たち、あるいは汉学に破壊的改革を要求する、旧来の汉学からは自由な新时代の人々、その中で次第に立ち上がって来る、现在の「中国思想史」「中国哲学」という学问に繋がる「支那哲学」の姿。
かつて覇権を握った伝統学術が、大きな時代の変革に直面し、その存在意義を真剣に問われた時、それはどのように揺さぶられ、また生き残ろうとしたのか。その中心的な現場であった東京 (帝国) 大学を舞台として描こうとしたのが本書です。
(紹介文執筆者: 水野 博太 / 2024年12月25日)
本の目次
1 本书の问题意识と分析范囲
2 先行研究とその课题ならびに本书の新规性
3 本书の构成
第1章 汉学から「支那哲学」へ――草创期の东京大学および前身校における汉学の位置と展开
はじめに
1 东京开成学校における汉学の位置づけ
2 草创期の东京大学における汉学の位置づけ
3 草创期の东京大学における汉学讲师の人选
4 草创期の东京大学における汉学教育の実态
5 汉学の転换
おわりに
第2章 汉学から「日本哲学」へ――井上哲次郎による世界発信の挑戦とその挫折
はじめに
1 日本人に哲学は可能か
2 「东洋哲学」「日本哲学」の模索
3 「日本哲学」はあるか
おわりに
第3章 汉学から「実用支那学」へ――井上(楢原)陈政を中心とした明治期の汉学改革论
はじめに
1 重野安绎の汉学改革论
2 井上(楢原)陈政の汉学改革论
3 帝国大学周辺の汉学改革论
4 岛田重礼の汉学および「支那哲学」観
おわりに
第4章 「孔子教」の前提――岛田重礼と服部宇之吉
はじめに
1 岛田重礼について
2 初期服部宇之吉の学风
3 服部の留学と周辺人脉
おわりに
第5章 汉学から「孔子教」へ
はじめに
1 服部のドイツ留学とKonfucius
2 Konfuciusにおける「天命」(厂肠丑颈肠办蝉补濒)
3 もうひとりの「孔子教」论者――大西祝との视点の差异
4 辛亥革命と「孔子教」论の形成
5 论敌の确定と「孔子教」论の形成
6 方法としての古典とその限界
7 「孔子教」の到达点
おわりに
终章 中心と周縁