ヘーゲル「主観的精神の哲学」 精神における主体の生成とその条件
19世紀初頭のドイツの哲学者ヘーゲルは、登場以来しばしば「近代哲学の完成」(フォイエルバッハ) と見なされ、様々な分野で広く読まれてきました。実際、近代のありかたをはじめて哲学的に総括したその思想が、マルクスやコジェーヴやハーバーマスといった現代の思想?政治運動の旗手たちに及ぼした影響には、計り知れないものがあります。
とはいえ今日、そのヘーゲルの思想の评判はお世辞にもよいとは言えません。いわく、ヘーゲルの思想は、すべてのものを自己同一的で意识的で理性的な「主体」の枠组のもとに包摂して、差异や他者や无意识といったものを排除しようとした、悪しき「同一哲学」の典型だ、というわけです。
けれどもこうしたイメージは、本当にヘーゲルの思想の実像をとらえているのでしょうか。とりわけ、ヘーゲルの言うその「主体」というのはそもそも、言われているような纹切り型のありかたをしているものなのでしょうか。―ヘーゲル自身は実际には、「主体」をどのようなものとして见ていたのでしょうか。そしてまた、まさにその「主体」が担う近代の、つまりはわたしたちの生きる现代にまで続く社会の构造と课题を、どのようなものとして捉えようとしていたのでしょうか。
「主体」の概念を、「近代哲学の完成」として毀誉褒貶に晒されてきたヘーゲル自身の思想に再び内在して考え直し、そこからまさに近代の延長線上に生きるわたしたちの生そのものを捉え直すこと。これが本書の課題です。そしてそのためのアプローチとして本書は、ヘーゲル自身が「主体」の生成の過程を叙述したテクスト「主観的精神の哲学」(『エンチュクロペディ』(1830) 所収) を主題としました。ヘーゲルはこのテクストにおいて、主体の生成の条件を指し示すとともに、それが近代の社会の構造と課題、そして将来の変容の可能性といかに関連しているかを示唆しています。その条件とはしかも、無意識的な記憶 (「想起」) と「習慣」(または「言语」) という、いずれもそれ自体は意識と理性の背後にあるような働きにほかなりません。ヘーゲルはこの二重の条件のもとに主体の意識と理性そのものの来歴を捉え、なおかつ主体が近代のなかで巻き込まれることになる課題の「根」を探り当てようとしたわけです。他方またヘーゲルは、同じ主体が自らの既存のありかたを揺さぶり、社会の秩序そのものを新たにする可能性にも開かれていることを示唆しています。そしてそこでも鍵を握るのはやはり、主体の生成を形作ってきたあの二重の条件なのです。
本书の意义は、こうした、ヘーゲルの「主体」の概念のうちにある动的かつ复合的な―そして自己同一的な意识と理性で完结するのでない―ひろがりを、テクストに即しつつ先駆的に提示した点にあります。そして本书の试みの成否は、趣旨からして、以上の本书の帰结が、现代の様々な社会的?伦理的课题と実际にどれだけ有効に接続するかで决まってきます。本书そのものはあくまで基础研究に终始していますが、もし今后、本书の问题提起を承けつつ、そうした接続の试みが様々な分野で盛り上がっていくなら、本书は十分にその役割を果たしたと见てよいでしょう。
(紹介文執筆者: 池松 辰男 / 2020年2月17日)
本の目次
第一章 「主観的精神の哲学」の基本课题
第二章 「主観的精神の哲学」の基本展开
第二部 「主観的精神の哲学」の基本概念の検讨
序 论
第一章 「主観的精神の哲学」における精神の没意识的境位とその意义
第二章 身体と言语
第三章 <第二の自然> と <機械制> ―「主観的精神の哲学」の構造と帰趨
第四章 欲求/狂気/情热 ―精神における主体の顚倒と更新
终 章 生成する主体