「大众」と「市民」の戦后思想 藤田省叁と松下圭一
政治思想は、何らかの形での人间性の把握、人间に対する特定の理解と密接に関わっています。色々な人々が様々な歴史の文脉の中で、人间はこういう存在だ、だからこのような人间たちが共同生活を维持するための技术、すなわち政治はこういうものだ、という见解を述べ、それに基づいて制度を设计したり、正当化したり、または変革したりしてきました。
これは支配の類型を問わずすべての政治形態について言えることです。たとえば一人の支配である君主政についても、少数の支配である寡頭政についても、そして多数の支配である民主政についても、政治の担い手である人間の性質の把握は政治思想の根幹をなすものであります。中でも政治における「多数者」は、歴史上、様々な名前で呼ばれてきました。人民、平民、臣民、国民、庶民… 同じ対象を論じる際にも、それをどのような概念枠で捉えるかによって対象への見方は変わってきます。
本书が注目するのは、20世纪日本において「政治の担い手となった多数」につけられた二つの名前、「大众」と「市民」です。そして民主主义を「大众による政治」とみるか、それとも「市民による政治」とみるかによって、民主主义そのものに対する考え方も大きく异なります。また、多くの政治的语汇がそうであるように、これらの言叶の意味は歴史の文脉の中で絶えず変化し、上书きされてきました。いま私たちが「大众」や「市民」という言叶を使う时に思い描くイメージは、たとえば1920年代の人々が考えたそれとは大きく异なります。
今日において「市民」は、公共生活に自発的に参加する人间、民主主义における理想の主権者のあり方を指す言叶として使われることが多いでしょう。一方、「大众」という言叶には、众愚政治やポピュリズムといった民主主义のネガティブな面に対する忧虑と警戒の含意がつきまとっています。しかし、戦后のある时期まで、民主主义の主人公は「市民」ではなく「大众」でした。特に1950年代までは、いまは忘れかけられている「大众民主主义」という言叶で现代の民主主义を捉え、それに関する展望を语り合うような言説が成立していました。
本書は、戦後思想家藤田省三 (1927-2003) と松下圭一 (1929-2015) の軌跡を追いながら、「大衆」と「市民」をめぐる戦後の言説を再構成し、その意義を考察します。多数の支配に対する醒めた認識を忘れずに、激変する戦後社会の政治的?経済的現実を見つめながら、より自由な秩序のあり方を模索した戦後知識人たちの議論から、現代の諸問題を考えるための手がかりを得ることができたら幸いです。
(紹介文執筆者: 趙 星銀 / 2020年9月3日)
本の目次
人類最大の危機の日 / 一九六四年の「現代」 / 「競争的共存」の時代 / 「戦後の終わり」をめぐる議論/ 「第一の戦後」と「第二の戦後」の間 / 「大衆?と「市民」
序 章 ?大众」と「市民」の概念史
第一节 ?大众」と「大众社会?
第二节 ?市民社会」と「市民?
第三節 『政治学事典』 (一九五四年) における「大衆」と「市民?
第一章 败戦と自由
第一节 藤田省叁――内面の命令への服従
第二节 松下圭一――文明の中の习惯の蓄积
第二章 天皇制と现代
第一节 藤田省叁――未完の近代
第二节 松下圭一――民主化と大众化
第叁章 市民と政治
第一节 藤田省叁――原人的市民
第二节 松下圭一――市民の条件
第四章 先进产业社会の二つの颜
第一节 藤田省叁――合理的なものと理性的なもの
第二节 松下圭一――「政治ぎらい」の政治学
终 章 ?国家に抗する社会」の梦
関连情报
残日録58 『「大众」と「市民」の戦后思想――藤田省叁と松下圭一』(趙星銀著.岩波书店.2017)から (古書 六夢堂ホームページ 2019年5月26日)
都築 勉 評 戦後第二世代の政治学 (政治思想研究 第18号 2018年)
齋藤純一 評 社会の民主的成熟に向けて議論 (朝日新聞朝刊 2017年8月6日)
都市问题 2017年10月号
信浓毎日新闻 2017年7月9日